岩手県 陸前高田
岩手県陸前高田市小友町(おともちょう)に借りている一軒家は、「立教大学コミュニティ福祉学部 陸前高田サポートハウス」と名付けられました。
その家は津波が来た地点からわずか200m程度の場所にあります。目の前は広田半島です。広田湾に来た津波は広田半島の付け根を横断し、大船渡側から来た津波とぶつかり渦を巻いて高台に押し寄せました。サポートハウスの縁側に立つと、破壊された干拓堤防の残骸と津波の痕跡が見えます。
「陸前高田は東北の湘南」と言われ、冬は暖かく夏は涼しく過ごしやすいと言われています。夏の盛りも夕方4時頃から、海から吹き上がってくる小友の風は冷たく気持ち良い風です。
この家に一人で居ると、大切な人のことを考えます。約2000人もの人が亡くなった陸前高田市、数字としても大変な数ですが、その一人一人に歴史が有り家族が居たことを考えると、まさにかけがえのない存在としての人を思わされます。亡くなった人にも、助かった人にもそれぞれの歴史があったのです。
小友に住むことで、多くの方の歴史を聴くことができます。それらは唯一無二の人生で有り、歴史で有り、文化であると思います。貴重なその地域や人の歴史を小友の風を受けながら聴いていきたいと思います。
追悼 欣ちゃん
2014年10月24日、陸前高田市長部の「欣ちゃん」が亡くなりました。ひょうきんで明るい人でした。みんなを楽しませてくれる人でした。
最初に会ったのは2年前、小友町のTさん宅。サポートハウスに一人居るわたしに「今日は親戚がみんな集まって食べるから一緒にどうぞ」と誘われて伺いました。その親戚の一人が欣ちゃんでした。漁協の会長さんと二人はすっかり出来上がっていて、その横に座らされました。すぐに欣ちゃんが話し掛けて来て名前や年齢や色々と訊かれました。すると同い年だということが分かり、親戚の方に(茨城県)水海道二校の出身の人がいて、(小/中/高校時代を水海道市で過ごしたわたしもびっくり)それからすっかり意気投合。何度も握手して、それから「欣ちゃん」「まっちゃん」と呼び合うようになりました。 その隣に座っていた漁協のドンは、わたしに色々と仰るのですが、酒に酔っているのと訛っているので、何を言っておられるのか全く分かりませんでした。しかし、何度も何度も同じ話をされるので、段々分かって来ました。「早く港を直して漁業を再開しないと、陸前高田は駄目になる。何度も陳情しているのに全然進まない。何とかして欲しい。漁師は海のそばにいないと生活出来ない。高い堤防は要らないから、とにかく早くして欲しい。」ということを何度も仰っていたのです。段々分かって来たので、話を合わせて聴いていました。隣で聞いていた欣ちゃんが「まっちゃーん、おめー、よく話してんなー。言ってること分かんのか?」ととても喜んでいました。後で聞いたところでは、この漁協のドンは、わたしのことを国会議員だと思って予算を付けて欲しいと言っていたのだそうですが。
「まっちゃん、春はメカブだ。俺が持って行くから買うなよ。売ってんのとは全然違うんだ。うまいの喰わせてやっからな。ワカメも買うなよ。」 水産加工の工場に勤めているから、喰わせてやると何度も言ってくれました。
学生が来た夏には、Tさん宅でのバーベキューに誘われたのですが、学生と行くと欣ちゃんもいました。若い学生が来たのをとても喜んで、一層はしゃいでいました。「おらー、並べ!ここへ並んで歌うぞ−!みんな「何言ってんの?何で歌うの?」などと言いながら面白がって並びました。欣ちゃんは指揮をするみたいに前に立って「よし、じゃあ、ふるさとだ。ふるさとを歌うぞ。」「うさぎ追いしかの山、ほらみんな歌え」と言って指揮を始めました。集まった人たちはそんな様子をげらげら笑って見ていました。「何でふるさとなのー」「おかしな人−」みんな楽しそうでした。学生も訳が分からないままふるさとを歌っていました。イカやさんまを焼いたり、楽しい時間を過ごしました。
でも、わたしはちょっとだけしんみりしました。陽気にはしゃいでいる欣ちゃんの本心がどこにあるのか?それを考えて居ました。「うさぎ追いしかの山、小鮒釣りしかの川。夢は今も巡りて 忘れがたきふるさと。 (三番)志を果たして いつの日にか帰らん 山は青きふるさと 水は清きふるさと」 ふるさとの景色を失った陸前高田の人の哀しみを感じたのです。陽気にはしゃぎながら泣いているようでもありました。
欣ちゃんは、大地震を大船渡市細浦にある工場に居た時に経験しました。細浦港のすぐそばにあったため浸水し被害を受けています。通り道に当たる細浦港は地盤沈下もあり、大船渡湾の湾港防潮堤を破壊して侵入してきた津波で大きな被害を受けました。そこからどうやって家に帰ったのか欣ちゃんから聴いたことがありました。「歩いて家に帰ったんだ。」欣ちゃんは事も無げに言いました。しかし、その距離はかなり遠く、高田町が通れなかった当時は山の上の農免道しかなかった筈ですし、なにより長部に通じる気仙大橋も、その上流にあった姉歯橋も流されていました。しかもそのことは停電の中で知る由もなかったでしょう。最上流の竹駒から廻舘橋で気仙川を渡らなければならなかったでしょうし、川を渡っても今泉地区は壊滅的被害で道も無く通ることは出来なかったはずです。そのことを訊くと、「小友の山側を通って農免道行って、出会った人に様子を聞いて海側は全然通れないので、その日は高田一中まで行って泊まった。次の日、何とか帰ったさ。矢作から長部に行く道は、小さい頃通ったことがあって、普通の人は知らない道があって、山の中を歩いて長部まで行った。家は全然無くなってておっかあ探して会ったんだ。」小友や高田の壊滅的状況を見ながら、何を考えながら家まで戻ったのだろうと思います。その家も、長部港の堤防のすぐ隣、2階から堤防に上がれたというくらいの位置で、奥さんに聞くと「地震ですぐに逃げて山に登ったが、目の前でぽっかり家が持ち上がって足下の崖の所で渦巻いて、また堤防超えて持って行かれた。」と仰っていました。
欣ちゃんは苦労したとか大変だったとかは一切言いませんでしたが、職場から長部まで2日間歩いたことは、いつか詳しく聴きたいと思っていました。
欣ちゃんの仮設住宅は、気仙沼に行く道のすぐ側です。3度ほど行ったことがありますが、ほとんど同じ地区の方々なので、とても仲良く過ごしているということでした。すぐ前に広い土地が広がっていて、地主さんが自由に使って良いということで、よくそこでバーベキューをしたり、ゲートボールしたりしているそうですが、いつも欣ちゃんが盛り上げてくれるということでした。
そんな欣ちゃん、わたしと同い年と若いのに。
朝4時半に「じゃ、行って来るよ。」といつものように出掛けて行ったそうです。仕事の最盛期なので朝早いのだそうです。前の日の夕方は、仮設玄関の階段に座りとなりのお爺さんと談笑していたと、隣のお婆ちゃんが言っていました。職場で働き始めたものの、6時半くらいに「何か具合悪い。」と言って、休憩室で休むと言って持ち場を離れたそうです。しかしその後様子を見に行った人がぐったり倒れ込んでいる欣ちゃんを発見したのだそうです。急性心筋梗塞だったということです。 あっけなく逝ってしまいました。
地区で高台移転が早々に決まり、工事も着々と進んでいました。新しい家を見ることもなしに逝ってしまいました。
なんだかやるせない。
「おう、まっちゃん」という声が聞こえてきそうです。
「欣ちゃん、どうしてる?そっちでも人を楽しませてる?早く逝きすぎだよ。」
陸前高田というところ
陸前高田市は、1955年に当時の高田町・気仙町・広田町・小友村・竹駒村・矢作村・横田村・米崎村が合併してできた市です。わたしは小友町の家を貸して頂き生活していましたが、様々な人にお茶飲み話をすると、合併前の町の特徴が未だ残っていてとても面白いのです。 またこの陸前高田市は様々な面白い特徴が有ります。震災ばかりが注目されていますが、この陸前高田市の面白さも記録に残していきたいと思います。
究極の地産地消
小友の家で寝ていたある朝「せんせー、居る?」と男の人の大きな声で目が覚めた。朝7時、「誰だろ?」と思いながら「はーい」と慌てて玄関に行く。仮設の敷地の中を学生と歩いていて知り合ったTさんだった。「アワビ貰ったからサー、食べてよ。」と生きているアワビを二つ貰った。近くで大工の仕事をすることになって、このわたしが借りた家の持ち主と同級生で、懐かしくて寄ったと言われる。「中学生の頃はよくここに遊びにきたんだよ。」「あいつ震災から全然連絡してこないな〜」と言いながら懐かしそうに家を見ていかれました。「トイレはさ、俺が造ったんだよ。ばあちゃん外に行くの大変だからさ」
朝からアワビのバター焼きを頂きました。
陸前高田は究極の地産地消の文化です。旬のものが取れると海のものはもちろん、畑のものも分け合って食べてしまいます。冷凍工場が市内に無いのは、そうした土地柄を表しています。たくさん採れたら隣近所に分ける、それが当たり前です。Tさんも大工さんですが、「アワビや帆立は貰って食べるものだ、買ったことは無い」と言います。「震災になってスーパーで何でも買わなきゃなんない。こんな高いもんだったんだなと初めて分かった。」と。
お裾分け文化でしょうか、豊かな自然のめぐみを皆で楽しむ、そうした本当の意味で豊かな土地です。
ですから、サンマを食べているときは、近所の人もほとんどサンマ、鰹の時はみな鰹、ワカメの時期はみなワカメ、そうやって旬が分かります。欲の無い陸前高田の人は、冷凍加工して大々的に売ろうという気がないのかな、そう思ってしまうほどです。
いい文化・風習だと思います。 東京が異常なのだと思います。
東北の湘南・ハワイ 陸前高田
東北の岩手県であるにもかかわらず、陸前高田は暖かいのです。夏は高田松原や広田町の田谷海岸・大野海岸は海水浴場として有名でした。お盆を過ぎたら寒くてとても泳げない東北では珍しいのです。
冬も暖かく驚く程です。内陸の一ノ関に車を置いていますが、冬は一ノ関では雪が凍りツルツル状態になります。「峠はやめときな」と言われて気仙沼を回って行った時がありました。夜ツルツルの道を、地元の人たちも時速30㎞くらいでノロノロと進みます。ようやく気仙沼に着き、三陸道と一般道が一緒になった道を陸前高田に向けて走り出すと・・・・しばらくすると、道に雪は全く無くなります。乾いていた時もありました。本当に驚きです。海からの風が暖かいのでしょう、内陸部とは全く別の天候です。
小友の家は南向きの斜面に建っているため、本当に暖かいのです。陽が当たっている時間は20度にもなります。冬でも日中はストーブを消しても大丈夫です。風が強くて冷たいので外を歩くのは大変ですが、家の中に居ると暖かくてぽかぽかしています。夕方になると急に冷え込んできて、夜は東北らしく0度とか時にマイナスになりますが、日中はこんなに暖かいのです。
北限
こんな特異な気候ですから、面白い光景を見ることができます。
小友町と高田町の間の米崎町はリンゴが有名で、道の両側や山の斜面にはリンゴの木が植えられています。寒い地域の代表のリンゴです。地元のリンゴ屋さんは10月くらいから3月までずっとリンゴを売っています。余りにその期間が長いので、理由を訊いてみました。全部この近くの山で作って居るのですが、50種類くらいあるということです!もう青森では栽培していない珍しい品種もあるということでした。確かに聞いたこともない名前がずらっと並んでいます。4月から5月にかけて白いリンゴの花が満開となります。木は低く剪定されているので、丁度目の高さに花が咲いていてとても綺麗です。
陸前高田では、東北地方特有のリンゴと一緒にお茶やミカンも栽培されています。椿も有名です。お茶やミカンは北限だそうです。静岡や和歌山・愛媛など暖かい場所で栽培されているお茶やミカンがあるというのは驚きです。
アイヌの子孫?
陸前高田市の中の、わたしが家を借りている小友(おとも)や、隣の広田半島の広田の地名は、アイヌ語だと言われています。意味は未だ聞いていないのですが「おっとも」「ぴろた」がそのまま残っているということでした。小友・広田の地名には、只出(ただいで)、長洞(ながほら)、茂里花(もりはな)、田束(たつがね)など、とても見ただけでは読めない地名が多くあります。大船渡にも「越喜来(おきらい)」「綾里(りょうり)」「立根(たっこん)」など難読地名がずらりです。これらも調べると何か分かるかも知れません。
大船渡あたりには、気仙語という東北弁とは異なる独特の言葉が残っているのですが、調べていないので何とも言えませんが、アイヌ語の影響なのかもしれません。いつも魚を買いに行っている大船渡市末崎の方は気仙語も話されます。時々教えて下さるのですが、覚えていられません。「えんずい」は、「合わない靴を履いた時の感じで何となく気持ち悪い、ぴったりしていない」という意味だそうです。
家のすぐ側に津波後家を建てられたYさんは、「俺らはアイヌの末裔なんだ。」と言われました。わたしが借りている家に、震災直後から4ヶ月半避難生活をされていた方です。今度もう少し詳しくお話を伺いたいな-と思っています。
小友・広田の歴史の歴史には興味が尽きません。今回の津波で貴重な資料が失われていなければいいのですが。
Yプロジェクト 進行中!
陸前高田市の仮設住宅に住んでおられるYさん(77歳)夫妻との交流が続いています。その中で、いくつかYさんへのサプライズ企画を立てて実行してきました。「被災者支援」という枠組みでは無く「個人としてのお付き合い」の中で、色々なことが起きています。助けられたり助けたり、そうした人間関係の中で起きていることです。
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Yさんが高齢者教室での文書を頂きました。毎年作文を書いて卒業するらしいのですが、その7年分を頂きました。家も車も田んぼも財産も全て津波で流されてしまったYさんです。幸い家族6人は皆さん無事でしたが、4.5畳二間の仮設住宅での生活です。50年間毎日日記を付け、その日記を時折読み返すのが趣味だったようです。そのため、話していても正確な年月日で話されます。「昭和◎年□月△日に出稼ぎを辞めて高田に戻ったの。」など。
そんなYさんが、25年前に地元の新聞に取材され、記事になったと高齢者教室の文書に書いてありました。若い頃の写真と共に掲載されたようでした。「お盆で家に帰った時に取材された」ということでしたので、その記事を探そうと思いました。 失った家や財産は取り戻すことはできませんが、「思い出は取り戻せる」と考えました。
幸いにもその直前、その地元紙の方と偶然にも知り合いになっていました。Yさんが書かれた文書と共に、おおよその年月を伝えて記事を探していただくようお願いしました。 その方はすぐに探してくれました。新聞社本社は高台に有り、全く被害を受けていませんでした。25年前の新聞はフィルムでは無く現物で保管してあるということで、めくって記事を探して下さいました。 そして見つけて下さいました。
25年前の写真と共に記事を手にしたYさんはとても喜んで、全文声を出して読み上げました。何度も何度も。そしてその記事になったエピソードもまた何度も語って下さいました。
一枚の写真があれば、一枚の手紙があれば、一枚の新聞記事があれば、思い出は甦ってきます。それを見ながらさまざまなエピソードが戻って来ます。
50年分の日記はもう戻って来ませんし、1枚の新聞記事の存在は大きいと思います。
2012年11月1日
準備をしてきましたが、「Yプロジェクト」とうとうクライマックスを迎えます。
陸前高田市モビリア仮設住宅におられる元大工のYさんは、私たち立教大学が流しそうめんをする際、ほとんどの準備を一人でして下さいました。そしてその後3ヶ月学生と文通や交流が続いています。
そのYさんは、26年前に出稼ぎ先で偶然拾った風船をきっかけに、長野県塩尻中学校の生徒たちと2年に渡り400通を超える文通をしていました。
生徒たちが卒業する前に文化祭に呼ばれ、一緒に写真を撮り、フォークダンスを踊り、歌を歌ったテープなどももらい思い出を作りました。卒業アルバムなども送られて来て、時々手紙やアルバムを出して見るのを楽しみにしていました。それから23年経ち、大事に取っていた手紙もアルバムもビデオテープも津波で全て失ってしまいました。50年間毎日欠かさず日記を書き、もらった手紙も何度も読み返しては返事を書く人でした。その人が、読む日記も手紙も、見る写真もビデオも無くしてしまったことの辛さを思うとなんとかしたいと思いました。25年前の新聞記事をYさんが本当に喜んでいる姿を見て、さらに思い出の品や中学生たちを探そうと思いました。当時のアルバムや手紙などを取り戻すことができれば、Yさんの今後の人生は変わるのでは無いかと思いました。
その結果、9月14日に同窓会を開き、みんなの持っている思い出の品を持ち寄ることを決め、11月3日に長野県塩尻市にて、当時の中学生が同窓会を開いてくれることになったのです。実に24年ぶりの再会を果たすことになりました。本人には未だ内緒ですが、当時の思い出の品が相当あります。本人が生徒たちに送った写真も取ってあったので、もう見ることが出来なくなってしまった流された家の写真もありました。11月3日には24名の生徒さんと担任だった先生が集まり、Yさんと感動の対面をします。
明日Yさん夫妻をお連れして陸前高田を出発します。
今日はYさんは床屋に行き、明日着ていく服を用意し、「子ども達に見せてあげたい。」と自分の持っている仮設住宅での写真などを準備されていました。自分にできる限りのことを精一杯される方ですので、きっと今日は寝ないで準備されていることと思います。
Yさんはこれからまた手にしたその思い出の品を毎日見ながら、暖かい気持ちを持って下さるでしょう。11月2日、その旅のスタートです。